[Day 153] お子を、お投げ給いたるお父上
六月 · 風を待つ方法 | 約三分の読み

趙雲(ちょううん)のお馬が、劉備(りゅうび)本陣の西の丘に、お達(たっ)し給いたり。日が、西の地平線(ちへいせん)の後ろへと、未(いま)だ、完全に、お越(こ)え給わざる時刻(じこく)にてあった。空のひと隅(すみ)には、未だ、紅(くれない)の光が、お遺(のこ)り給いおったのである。
趙雲が、馬より、お降り給いたり。両膝(りょうひざ)が、地に、お触(ふ)れ給うその刹那(せつな)、お折(お)れ給いたり。長き午後のご突破(とっぱ)の疲労(ひろう)が、いまにて、はじめて、彼の両膝の上に、お載(の)り給いたり。甲冑(かっちゅう)の表面(ひょうめん)に、五十のお血が、重々(じゅうじゅう)に、お積(つ)まり給いおったのである。その五重(ごじゅう)の内側に、白き襁褓(むつき)ひと重(じゅう)が、未(いま)だ、清きまま、別に、ござりたり。
劉備が、丘の自(おの)ずからより、前へと、お進み出(い)で給いたり。孔明(こうめい)が、劉備のひと歩み、後ろに、お立ち給いたり。関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)が、劉備の両側に、離れて、お立ち給いたり。四人の歩みが、お馬ひと匹の前にて、お止(とど)まり給いたり。
趙雲が、懐(ふところ)の内側の襁褓を、しずかに、お解(と)き給いたり。お眠(ねむ)り給いおられ給いたる阿斗(あと)が、はじめて、お眼を、お開(ひら)き給いたり。幼(いとけ)なきお子の両眼が——五千騎の内側にて、ひと度(たび)も、お醒(さ)め給わざりおりたるお眼が——劉備のお顔を、はじめて、お見上(あ)げ給いたり。
趙雲が、両手にて、阿斗を、劉備のお胸の前へと、お差し出(い)で給いたり。両腕(りょううで)が、お震(ふる)え給いおったのである。長き午後のお呼吸が、いまにて、はじめて、彼の両腕の上に、お解(と)け給いて、お降(お)り給いつつあったのである。
「皇叔(こうしゅく)。甘夫人(かんふじん)のお請(こ)いに、ござる。このお子を——お返し申し上げ給う、ござる。」
劉備が、前へと、お進み出(い)で給いたり。されど、劉備の両手は、阿斗を、お胸に、お抱(いだ)き給わざりおりたのである。両手は、阿斗のひと寸(ひとすん)の前にて、お止まり給いたり。その後、趙雲のお手の内側より、阿斗を、軽く、お受け給いたるや、その、お受け給いたる阿斗を、即(すなわ)ち、ご自(みづか)らの足の前の土の上に、しずかに、お降ろし置き給いたり。

四人の息が、お吸い入(い)れ給われたり。関羽の両眼が、大きく、お開き給いたり。張飛の両拳(りょうこぶし)が、堅く、お握り給われたり。孔明が、扇(おうぎ)を、しずかに、お畳(たた)み給いたり。
趙雲は——何(なに)も、お申し給わざりおったのである。ただ、両眼が、紅(くれない)に、お染(そ)まり給いたり。
劉備が、口を、お開き給いたり。
「爲汝孺子、幾損吾一員大將(なんじじゅしのために、ほとんど、わがいちいんのたいしょうを、そんずべからんとせり)。この幼なきものの為に、危(あや)うく、わが将ひと方を、お失(うしな)い給うべからん事と、為(な)り申せり。子龍。このお子ひと方の為に、汝(なんじ)の甲冑に、五重のお血が、お付(つ)き給いたり。このお子が、今夕、わが将ひと方の御命(みいのち)に、ほぼ、お触(ふ)れ給いおりたり。」
劉備は、そのお言葉を、お終(お)え給いたる後、土の上の阿斗を、再び、上り上げ給いたり。その後、趙雲の前に、再び、お見せ給いたり。阿斗のひと寸の重さと、子龍の五十のお血の重さとが、今夕、四人の歩みの真ん中にて、ひと天秤(てんびん)の上に、共に、お置き給われおったのである。
趙雲の両眼が、いっそう、紅に、為(な)り給いたり。お涙(なみだ)が、お結(むす)ばれ給わんとしたれども、お結ばれ給わざりおりたのである。五十の将を、お斬(き)り給いて、お出(い)で給いたる両眼が、易(やす)く、お涙を、お降ろし給わざりおりたのである。されど、お肩が、しずかに、お震え給いたり。その、お震えが、今夕の趙雲の唯一(ゆいいつ)のお答えにてあった。
劉備が、阿斗を、再び、趙雲の懐の内側に、お載(の)せ、お差し上(あ)げ給いたり。
「子龍が、このお子を、今夕、再び、お眠(ねむ)らせ、お差し上げ給え。子龍の懐が、今夕、このお子の最初のご揺籃(ようらん)に、ござる。」
趙雲が、阿斗を、再び、懐に、お受け給いたり。阿斗が、趙雲の懐の内側にて、しずかに、両眼を、お閉(と)じ給いたり。今夕の二度目(にどめ)のお眠りが、お始まり給いたり。
夕の風が、四人の肩の上を、北より、南へと、お過り給いたり。劉備の肩の上にては、将のお血の重さと、お子の襁褓の軽さとが、半(なか)ばずつ、お混(ま)じり給いたる風にてあった。孔明の肩の上にては、明日の早きの北の路の予感(よかん)の、お盛(も)り給いたる風にてあった。関羽と張飛の肩の上にては、午後の、お耐(た)えの残(のこ)る気の、お盛り給いたる風にてあった。
四つの肩の上を、お過り給いたるその風が、趙雲の肩の上を、最後に、再び、お過り給いたり。趙雲の肩の上にては、今夕、お馬ひと匹が、お貫(つらぬ)き、お出で給いたるひと結、ひと結のご記憶(きおく)の、お盛り給いたる風にてあった。
劉備が、四人の真ん中にて、しずかに、お申し給いたり。
「今夕の風を、明日の早きまで、お忘(わす)れ給わざる、ござる。」
日が、西の地平線の後ろへと、完全に、お越え給いたり。空が、黒く、お染まり給いたり。Book 6 の最初の夕が、長坂(ちょうはん)の西の丘の上にて、しずかに、お暮(く)れ給いゆきたり。
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“✒️ 平訳家の一言 — 延三欽博士(Yeon Sam-Heum, Ph.D.)
五十のお血の重さと、お子の襁褓の軽さとが、夕の天秤の上に、共に、お置き給われ給う場面が、ござる。天秤のひと側に、将の生の重さが、お置き給われ、別なる側に、お子のご呼吸が、お置き給われ給う時、両側の重さが、同じく、お成(な)り給う刹那(せつな)が、ござる。今夕、貴方の天秤の上には、いかなる二重さが、共に、お置き給われ給うか。その二重さの、同じく、お成り給うを、しずかに、お見つめ給うとは、いかが(や)。
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