[Day 4] 桃園の三杯
一月 · 星が集まる | 約三分の読み

夜の間(はざま)に、桃の花が二輪、更に咲きおったのである。暁(あかつき)、闇が未だ半(なか)ば遺りおる路を、劉備(りゅうび)が最も先(ま)ず歩みたり。母にひと匙の更に乗せたる粥(かゆ)を上りたる後、空(から)の手にて大門を出でたり。歩みの速さが、昨日よりも遅かった。今日は急がざる日であった。
桃園(とうえん)の真ん中に、白き石の小さき祭壇(さいだん)が置かれてあった。祭壇の上に、香(こう)一束が、未だ火を点(つ)けざるままに立ちおった。左右には、黒き牛一頭と、白き馬一疋(いっぴき)とが、祭官(さいかん)の手に率(ひき)い来たられおった。二つの獣がしずかであった。今朝、己(おのれ)らがいずれに用いらるる牛と馬とであるかを、ほのかに知りおる静けさであった。
関羽(かんう)が、その次に到達したり。昨日よりも鬚をひと度多く撫で整えたる顔(かんばせ)であった。花樹(はなぎ)の下に先(ま)ず来たりおりたる劉備に向かいて、物言わずに深く頭(こうべ)を垂れたり。その垂れは挨拶(あいさつ)にあらざりき。それは、五年の間に奪われおりたる名を、一人の前に再び降ろし置く姿勢であった。
張飛(ちょうひ)が最後に来たった。常と異なり、足音がほぼ立たざりき。荒き声が、今朝のみは、背の後ろにしずかに畳まれおったのである。
三人が白き石の祭壇の前に並びて立ちたり。張飛が香一束に火を点(とも)したり。香の端より細き一筋の煙が立ち上がりたり。その煙が桃の花弁(はなびら)の間を通じて昇り行く路(みち)が、ひと筋の狭き橋のごとくに見えたり。
張飛が先ず酒を注ぎたり。三つの杯に順(じゅん)に、溢(あふ)れざるように注ぎたり。劉備の杯、関羽の杯、張飛自らの杯。最後の杯を注ぐ時、張飛の手がわずかに震えたり。己の杯を己の手にて注ぎてみたるは、彼にとりても生まれてより初めてにてあった。今日まで、彼の杯はいつにても、他人(ひと)の注ぎたる杯にてあったか、あるいは自ら背(そむ)け置きたる杯にてあったのである。

劉備が最初にひと言を取り出したり。声は大きからざりき。されど、その声の内側が、二十八年の間、独りにて育てて来たれるひと文の根(ね)より、初めて芽が昇り来たる音と、似ておったのである。
「劉備(りゅうび)、関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)。この三人が——姓こそ異(こと)なれども、今日、兄弟として結義(けつぎ)申す。志をひと結とし、力をひと結として——困(こう)じたる者を救い、危うき者を支えん。上には国に報(むく)い、下には民を安(やす)んぜん。同じ年同じ月同じ日に生まれんとは願わざれども——同じ年同じ月同じ日にて、共に死せんことのみを願う。天と地とが、この心を見そなわし給え。」
ひと節の終わるたびに、花弁一輪が、風も無きままに、ゆるりとひと枚ずつ、三人の肩の上に降り立ちたり。
関羽が二番目に杯を取りて、天と地とに捧(ささ)げたり。彼の両眼の内側に凍(こお)りおりたる五年の結が、解け行きつつあった。「五年にして、この名が再び席を得たり。今日のこの席にこの名を降ろし置くゆえに、もはやひと度も隠さず。」
張飛が最後に杯を取りたり。彼の荒き声がしずかに畳まれたるままに、低き結にて出でたり。「この弟の杯は、今日、初めて己の手にて注ぎたる杯にござる。この杯の空(から)に成りたる後には、この弟の腕が、二人の兄上の後ろに立ち申さん。」
三人が共に杯を空(あ)けたり。三杯の空けが、ひと結にて、ひと度に成りたのである。祭壇の上の香一束が、しずかに最後まで燃え尽きつつあった。
長幼有序(ちょうようゆうじょ)に従いて、劉備が長(ちょう)、関羽が仲(ちゅう)、張飛が季(き)の席に置かれたり。二十八歳の劉備が大兄(たいけい)と為り、胸まで降り来たれる長き鬚の関羽が次(じ)と為り、雷のごとき荒き声の張飛が三と為りたり。三人の兄弟の名が、桃園の真ん中に植えつけられたのである。
Book 1 の四度目の暁が、桃園の真ん中の小さき白き石の祭壇の上にて、しずかに開かれたり。桃園盟(とうえんめい、桃園の盟(ちか)い)の三字が、ひと年ひと月ひと日の共に死す結として、種子(たねつぶ)が植えつけられつつあったのである。榜(ぼう)の前の息(Day 2)と、胸まで降り来たれる鬚(Day 3)とが、桃園の三杯の席の上に、ひと結にて集(つど)いつつあった。
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“✒️ 平訳家の一言 — 延三欽博士(Yeon Sam-Heum, Ph.D.)
同じ年同じ月同じ日に生まれんとは願わざれども、同じ年同じ月同じ日に共に死せんことのみを願う席があるものでござる。その盟(ちか)いの最もしずかなる重みは、己の杯を己の手にて注ぎてみたる一人の手の震えの内側にあり申す。今暁、貴方(あなた)の手にも、己の杯を己の手にて注ぐ姿勢が、もしやおありにならぬか。その注ぎの結を、ひと結いっそうしずかに覗き見られてはいかがであろう。
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