[Day 108] 最後のひと拍子
四月 · すべて捨てた夜 | 約三分の読み

郭嘉(かくか)が、お世(よ)を、お去り給いたるは、その夜の三更(さんこう)の頃(ころ)にてあった。
曹操(そうそう)は、郭嘉の手が、冷え行(ゆ)き給うを、最後まで、傍(かたわ)らにて、お見守り給いたり。冷え行き給う手の端にて、最後に、極めて細き息のひと自(おの)ずからが、お抜(ぬ)け出(い)で給いたり。曹操の両眼が、その自ずからを、お逃(のが)し給わざらんと、欲し給うかのごとく、永(なが)く、その手の上に、お留(とど)まり給いたり。
天幕の内側の灯火(ともしび)は、少(すこ)しく前に、既(すで)に、お消(き)え給いおりたのである。曹操は、火を、再び、お点(つ)け給わざりき。ただ、暗き内側にて、郭嘉の顔が、再び、お見え給うを、永く、お待ち給いたり。
夜明けと、為(な)りたるに、曹操は、天幕の外へと、お出(い)で給いたり。
陣営(じんえい)の全(すべ)ての旗が、既に、半(なか)ばまで、お降ろし給われおりたのである。荀攸(じゅんゆう)が、お命を、お受け給わざるとも、まづ、お命を、お下し給い置きおったのである。兵士たちが、甲冑(かっちゅう)を、お脱(ぬ)ぎ給いて、軽き麻布(あさぬの)に、お替え給いおりたのである。軍営の全体が、誰人(たれびと)も、お声を、上りて、お泣き給わざりき、されど、既に、お泣き給いおりたのである。
曹操は、本営の中央の席に、お座り給いたり。お座り給う、と申すよりは、お頽(くずお)れ給う、と申すべきにてあった。両手にて、両膝(りょうひざ)を、お握り給いて、永く、頭を、お垂れ給いおりたのである。その後、頭を、お上り給いたり。
彼のお声が、外へと、お流れ出(い)で給いたり。
「ああ、奉孝(ほうこう)よ。ああ、奉孝よ。」
かく、お呼び給いて、曹操は、再び、頭を、お垂れ給いたり。再び、かく、お呼び給いたり。風が、幕の角(かど)を、お揺(ゆ)らして、過ぎ行き給いたり。
正午(しょうご)の頃、荀彧(じゅんいく)が、しずかに、本営に、お入り給いたり。曹操の前に、ひと歩み、離れて、お立ち給いたり。
「丞相(じょうしょう)、軍を、お動き給うべき時に、ござる。」
曹操は、長く、お答え給わざりき。その後、ゆっくりと、頭を、お上り給いたり。彼の眼は、既に、お赤(あか)かりき。されど、その赤さの内側、いずこかにて、別なる結が、お入り来(く)りおったのである。
「文若(ぶんじゃく)。それがし、今日、永く、お忘れ給い得(う)ざる夢を、お見給いたるな。」
「いかなる夢に、ござりたるか。」
「奉孝が、それがしに、二人のお名を、お遺(のこ)し給いて、お去り給いたり。劉備(りゅうび)、ひと人。そして、いま一人は、お名を、お申し給わざるまま、お去り給いたり。お名を、お知(し)り給わざるが故にあらず、未(いま)だ、自(みづか)らのお名を、世(よ)に、お出(い)で給わざる人なる故と、奉孝が、夢の内にて、お申し給いたり。」
荀彧は、永く、お言葉なく、ござりたり。その後、しずかに頭を、お垂れ給いたり。
「そのお名が、いつの日か、必(かなら)ず、丞相の前に、お立ち給う事と、為(な)り申さん。」

その夕、曹操は、易京(えきけい)の本陣を、許都(きょと)のほうへと、ひと歩み、お退(しりぞ)け給いたり。郭嘉の棺(ひつぎ)は、前の車に、お載(の)せ給われたり。その棺の両側にて、荀彧と荀攸が、各(おのおの)の馬を、ひと歩み、離れて、お立て給いたり。
曹操は、後ろより、お従い給いたり。平素(へいそ)にては、最も前に、お立ち給う席にてあった。今日は、後ろにてあった。後ろにて、郭嘉の棺を、前へと、お遣(つか)わし給いて、北の路の上を、ひと歩み、ひと歩み、お降り来(き)たり給いたり。
中央の丘の上にて、曹操が、馬を、お止め給いたり。
後ろを、お振り返り給いたり。易京の陣営が、既に、夕焼けの内側にて、お薄(うす)れ行き給いおりたのである。その陣営のひと席に、郭嘉の天幕が、ござりたる席が、いま、空(から)の席のみと、為(な)りて、お遺(のこ)り給いおったのである。
曹操が、お申し給いたり。
「奉孝の席は、この身が、お死(し)に給う日まで、お充(み)たし給い得(う)ざる席に、ござる。」
そのお言葉を、お吐(は)き給いて、彼は、再び、馬の頭を、南へと、お向け給いたり。
後ろにて、兵士たちの足音が、整(ととの)いたる節(ふし)にて、お続き給いたり。白き麻布の擦(す)れ合(あ)うる音、馬の蹄(ひづめ)の規則的(きそくてき)なる響き、その間(あいだ)に、混じり給う荀攸の咳(せき)の音。曹操は、その音を、全(すべ)て、ひと度に、お聞き給いたり。そして、その音の中(うち)に、ひとつのみ、既に、ござらざる事を、即(すなわ)ち、天幕の角にて、郭嘉が、夕毎(ゆうごと)に、巻物を、お広げ給いつつ、お出し給いたる紙の擦れ合うる音を、耳にて、まづ、お知り給いたり。音のなき席は、音よりも、いっそう鮮(あざ)やかに、耳に、お遺り給う席にてあった。
丘を、完全に、お下り終(お)え給う前、曹操は、ひと兵士に、しずかに、お命を、お下し給いたり。「易京の天幕の跡を、その儘(まま)に、お置き給え。封土(ほうど)を、お立て給うこと、無きように。石を、お動き給うこと、無きように。空(から)の席が、その儘、空の席にて、お遺り給うように、お致せ。」兵士が、両手を、お合(あ)わせて、お受け給いたり。そのお命が、伝令を、通りて、北の陣営へと、お戻り給いたり。易京には、今夕より、明日まで、郭嘉の天幕の跡が、空の儘、お遺り給う事と、為(な)り給いたり。その空の席の上に、北のひと星が、永く、お留(とど)まり給う事と、為り申さん。
空には、星が、多かりき。
最も大いなるひと星の、お過り給いたる席の傍(かたわ)らに、いま一つの小さき星が、今宵、はじめて、しずかに、自(みづか)らの席を、お守り給いおったのである。その小さき星は、未(いま)だ、お名を、お持(も)ち給わざりき。
お名を、お持ち給わざるままにても、星は、既に、お輝き給いおったのである。
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“✒️ 平訳家の一言 — 延三欽博士(Yeon Sam-Heum, Ph.D.)
わが人が、まづ、お去り給いたる席の前にて、最も前にあらず、最も後ろに、わが馬を、お立て給いたる事が、ござりたるか。先頭(せんとう)に、最も上手(うま)く、お立ち給う人ほど、御平生(ごへいぜい)にひと度は、後ろに、お立ち給いて、前のひと人を、お送り給う拍子が、お訪(おとな)い給うものに、ござる。そのひと息の内側にて、彼のお名よりも、わが人のお名が、まづ、空(そら)に、お掛(かか)り給う。今日、貴方の傍(かたわ)らにも、後ろに、お立ち給いて、お送り申し上げたきお名が、もしや、ござらぬか。後ろに、お立ち給う夕は、御平生(ごへいぜい)にひと度のみ、お訪い給う夕に、ござる。その夕を、お気付(きづ)き給わざらば、そのお名が、独(ひと)り、前にて、お去り給い行(ゆ)き給う事と、為り申さん。お気付き給わば、後ろにて、しずかに、お礼(れい)を、上り上げ給え。空のみが、お見給いたるお礼は、不思議(ふしぎ)にも、お礼上げ給いたる人が、最も永く、お記し給うお礼と、為り申す。幾年(いくとせ)の後、彼は、その動きの額(ひたい)の重さを、再び、お思い起こし給いて、その人が、前に、お居(い)給いたる時には、お知り給うを、決して、お得ざりたる、ひと結を、お知り給う事と、為り申さん。
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